コロナ禍を契機に急速に広まったリモートワークは、今や多くの企業にとって当たり前の選択肢となりました。その延長線上で、ときに国境を越えて旅をしながら、カフェやシェアオフィス、ワーケーション施設など、自由な場所で働く“デジタルノマド”というスタイルが広がりつつあります。
従業員の多様なライフスタイルを支援しながら、企業としての生産性・柔軟性を高めるこの動きは、雇用のあり方や人材確保の観点からも注目されています。
しかし一方で、「どこでも働ける」ことが前提となる時代に、企業のIT部門には以下のような新たな課題が突きつけられています。
本記事では、これからの働き方を支えるIT基盤として「デジタルノマド時代」に対応するための情報システム部門の戦略と具体的な施策を解説します。
デジタルノマドとは、インターネット環境さえあれば、世界中どこでも働けるライフスタイルを指します。オフィスに縛られず、カフェやコワーキングスペース、さらにはビーチや山の上といった非日常的な場所でも仕事ができるため、「旅をしながら働く」ことが可能になります。
リモートワークが一般化したことで、企業のITインフラは「オフィスを中心とした設計」から、「ユーザーを中心に動的に変化する設計」への転換を求められています。特に、デジタルノマドのように働く場所が固定されない場合、その変化はさらに顕著です。
そこで、対処しなければならないのが以下のような課題です。
これまでのリモートワークではある程度、インターネット環境や利用デバイス、就業時間の管理が可能でした。しかし、デジタルノマドの場合は以下のような変数が増えます。
このような状況に対応するには、従来のVPN接続や社内システム中心の管理では限界があります。そのため、企業はより柔軟なIT設計が必要になります。
デジタルノマドのように場所を問わず仕事をするスタイルでは、社内・社外のネットワークの境界があいまいになりがちです。そのため、従来の境界型セキュリティの考えのまま、公共Wi-Fiの使用や私物デバイスの利用などが行われれば、情報漏えいやマルウエア感染のリスクが高まります。
世界各地で異なるタイムゾーンに散らばる従業員を一律の労働時間で管理することは現実的ではありません。また、拠点ごとに異なる労働法や税制への対応も無視できません。例えば、欧州圏ではGDPR(一般データ保護規則)への準拠、アジア圏では就業許可や社会保障制度の違いが、企業側の労働環境の運用設計に影響をおよぼします。
さらに、成果主義とのバランスをどこに置くか、リアルタイムでの稼働状況をどの程度把握すべきかについても判断が求められます。
デジタルノマドは、世界各地から異なるネットワークや端末を使って業務にアクセスするため、アプリケーションの動作やデータの一貫性を保つのが難しくなるという課題があります。
とくに以下のようなケースで問題が顕在化しやすくなります。
このように、「どの端末・どの場所でも一貫した業務体験を保証する」ためには、単なるクラウド導入ではなく、利用環境のバラつきを前提としたインフラ整備が不可欠です。
つまり、デジタルノマド時代には、「場所を問わず働ける環境=制御不能な要素が増える環境」であることを前提にした、新たなIT戦略が求められるのです。
こうした課題に対応するためには、どうすればよいのでしょうか。
以下では、デジタルノマド時代に求められるIT環境の基本的要素を整理します。
VPNや社内LANによる境界型防御では、デジタルノマドのように拠点やデバイスが分散した働き方には対応しきれません。そこで注目されるのが、「常に検証し、決して信用しない」という原則を持つ「ゼロトラストネットワークアーキテクチャ(ZTNA)」です。
ZTNAは、「社内ネットワークに接続している=安全」という前提を捨て、すべてのアクセスを都度検証し、リスクに応じて制御するという考え方に基づいています。
以下に、ZTNAを構成する代表的な要素について詳しく解説します。
公共Wi-Fiを使った通信や私物PCからの接続では、端末自体が攻撃の入口になるリスクが高まります。そこで、使用している端末のセキュリティ状況を自動でチェックし、不十分な端末をシャットアウトする仕組みが必要となります。
パスワードだけに頼る認証では、フィッシングやパスワード漏えいといった脅威を完全に防ぐことはできません。とくに、場所やネットワークの信頼性が確保できないデジタルノマド環境では、本人確認の信頼性を高める多要素認証(MFA)の導入が必須となります。
同じユーザーでも、「どこから・いつ・どのように」アクセスしているかによってリスクは変動します。そのため、ZTNAでは固定的なアクセス許可ではなく、「通常とは異なる国からアクセスがあった場合は一時ブロックする」など、接続時のコンテキスト(状況)に応じて柔軟にアクセスを制御する仕組みを取り入れます。
ZTNAと並び、デジタルノマド時代のITインフラ整備に欠かせないのが、SASE(Secure Access Service Edge)です。SASEは、ネットワーク機能(SD-WAN)とセキュリティ機能をクラウドで統合するアーキテクチャであり、「場所を問わずに一貫したセキュリティ」を実現する上で非常に有効です。
SASEを構成する主要な技術要素は、以下の通りです。
SWGは、Webアクセスに対するフィルタリングやマルウエア防止、URL制限などを提供するクラウド型のセキュリティゲートウェイです。ユーザーがどこからWebにアクセスしていても、企業のセキュリティポリシーが適用されるためリスクを軽減できます。
CASBは、SaaSを安全に利用するための仲介役です。SASEにCASBを組み込むことで、以下のような制御・監視が可能になります。
SaaSの普及により、データが企業の管理外に置かれるリスクが増しています。CASBを活用することで、データの流れを監視・制御し、コンプライアンスを維持できます。
SASEは、世界各地に配置されたPoP(Point of Presence)を経由して通信を最適化し、ユーザーに低遅延かつ、セキュアな接続を提供します。 これは、次のような効果をもたらします。
つまり、SASEを活用すれば「グローバルに分散した従業員でも、セキュリティと生産性を両立できる環境」を構築できるのです。
従来のようにネットワーク機器ごとにログを収集・分析していた場合、場所やサービスが多様化するほど運用は複雑になります。SASEを導入することで、以下のような要素が実現され、IT部門の負荷を大幅に軽減することができます。
通常、デジタルノマド環境で従業員が使用する端末は、企業支給のPCだけでなく、私物PC(BYOD)や現地で調達したデバイスなど多岐にわたります。こうした多様な端末を安全に業務利用するには、「UEM(Unified Endpoint Management=統合エンドポイント管理)」の導入が不可欠です。
UEMは、PC・スマートフォン・タブレットなどあらゆるデバイスを統一ポリシーで可視化・制御する仕組みであり、セキュリティと利便性のバランスを取るために中核的な役割を果たします。
UEMでは、あらゆるエンドポイントについて以下のような情報をリアルタイムで収集・管理できます。
これにより、ポリシーに違反した端末を自動的に検知・制限し、問題のある端末へ迅速な対応が可能となります。
万が一、従業員がノートPCやスマートフォンを紛失した場合でも、UEMを通じて以下の操作を遠隔で実行できます。
これにより、端末の物理的な紛失が即座に情報漏えいに直結するリスクを大幅に抑えることができます。
UEMは、事前に定めた条件(OS、場所、ユーザー属性など)に応じて自動でポリシーを適用・更新できます。これにより、新規端末のセットアップやポリシー変更は大幅に効率化されます。さらに、クラウドベースのUEMソリューションを活用すれば、世界中の拠点や個人ユーザーを対象として、スケーラブルに管理を拡張することが可能です。
ここまで、デジタルノマドに対応するためのITインフラやその設計思想について見てきました。しかし、「本当に企業でうまく活用できているのか?」と疑問に感じる方も多いかもしれません。
とくに近年は、出社回帰やセキュリティ統制の重要性が改めて注目されており、フルリモートやノマドのような自由度の高い働き方に対する慎重な声もあります。
そこで以下では、「柔軟性」と「統制」を両立しながら、実践的にデジタルノマド活用を進めたケースを二つご紹介します。
セキュリティソリューションを提供する従業員約200名のSaaS企業では、製品開発やサポート業務のスピードを向上させるため、国境を越えた多様な人材との協働体制を模索していました。しかし、業種柄セキュリティ要件が非常に高く、無制限なリモートワークやノマド制度には慎重な姿勢をとっていたのが実情です。
そこで同社は、「柔軟性」と「統制」を両立させるための制度と技術の設計に踏み切ります。まず、ノマドワーカーが利用する端末については事前登録制を徹底し、認証の多要素化、そして業務用アプリを端末内のコンテナ領域に分離する形でセキュリティを確保。さらに、ZTNA(ゼロトラスト)+SASE(Secure Access Service Edge)の構成を用いることで、ユーザーの行動・通信経路・端末状態をリアルタイムに監視・制御できる体制を構築しました。
労務面でも慎重な制度設計を経て、「最大3か月間の国外滞在を可能とするノマド制度」を新設。社会保険や現地の課税リスクなど、法務・経理・人事と連携して明確な運用ガイドラインを整備しました。
この取り組みにより、同社は海外在住の優秀なエンジニアを複数名採用することに成功し、開発チームのリードタイム短縮にもつながりました。また、人材の確保と定着、そして柔軟性の高い働き方の制度化という観点でも大きな成果を上げています。
工業部品や資材の輸出入を手がける従業員約500名の専門商社では、アジア圏を中心に海外展開を進めていたものの、渡航制限やオフィス勤務の制約によって、営業活動のスピードと柔軟性に大きな課題を抱えていました。特に、各国の現地顧客への即応性やタイムゾーンを跨いだ対応力が求められる中で、固定拠点に依存した営業体制では限界が見えてきたのです。
そこで同社は、既存の拠点戦略を見直し、元駐在員や地域出身の営業パーソンを“ノマド営業担当”として再配置。業務上の自由度を担保しながらも、セキュリティとマネジメントのバランスを取る新たな体制を整備しました。
端末面では、UEM(統合エンドポイント管理)をベースとした統一的なデバイス管理を導入。業務データはローカルには一切保存せず、クラウドストレージ上での作業を基本とすることで、情報漏えいリスクを抑制しました。通信経路にはSASEを活用し、場所に関係なく安定かつ安全な接続環境を提供しています。
また、勤怠管理ではGPS打刻機能付きのクラウドアプリと、Slack上のステータス更新を連動させたリアルタイムな稼働モニタリング体制を構築。これにより、拠点不在でも適切な労務管理と成果の可視化が可能になりました。
その結果、海外顧客からの問い合わせ対応のスピードが向上。さらに、物理拠点の統廃合にも成功し、大幅なコスト削減も実現しています。また、営業担当が現地で得たリアルな市場情報を社内に即時共有する文化も生まれ、商品開発やマーケティング部門にも好影響をもたらしています。
このように、単なる「出張やリモート」の延長ではなく、地域に密着したノマド体制として設計し直すことで、営業機動力と組織全体の柔軟性を同時に引き上げた好例となっています。
リモートワークの拡大を経た現在、再び“出社前提”の運用に回帰する企業も増えています。 セキュリティの確保や勤怠管理、コミュニケーションの課題などから、「やはりリモートは難しい」「コストがかかる」という認識が広がっているのも事実でしょう。
しかし、だからといって「どこでも働ける」環境が不要になるわけではありません。むしろ、それを前提に設計されたITインフラは、柔軟な人材戦略、災害対策、グローバル対応といった複数の経営課題に応える“企業の強さ”そのものになり得ます。
デジタルノマドをはじめとする自由な働き方を‟許可する”のではなく、“支えられる環境を設計する”という視点に立つことが、これからの情報システム部門に求められています。